都七福神~寿老人~革堂のこと


都七福神の寿老人は、革堂(こうどう)、正式には、行願寺です。

寿老人とは?

長い頭に長い白ひげ、短身の老人。巻物をつけた杖を持ち、うちわを持ち、鹿を連れています。

鹿は玄鹿(げんろく)と呼ばれ、長寿の象徴とされており、ロクは禄に通じることから、延命長寿、福禄の神とされます。
また、手には、長寿のシンボルである不老長寿の桃か、人の難を払ううちわをを持っています。

 

福禄寿と寿老人は、中国の道教が起源の神さまです。
中国、宋の時代の人で、星辰信仰に由来する南極星の人格化ともいわれます。

福禄寿・寿老人とも、禅宗の伝来とともに、水墨画の画題として日本に輸入されたといわれ、

他のメンバーのように、日本にきてから神道や仏教と結び付けて考えられたということもなく、

中国から輸入されたイメージが、ほとんどそのまま生かされています。


なお、日本では七福神として知られていますが、

福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入ります。

革堂

革堂(正式には行願寺)は、寺町通竹屋町を上がったところにある、天台宗の寺院です。
本尊は千手観音で、西国三十三所第十九番札所です。

行願寺は平安時代の1004年に、行円が一条通に創建しました。
当初の寺地は、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残っています。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としており、ある時、山で鹿を射止めましたが、その腹の中に生きた小鹿を見て、後悔しました。
そこで、その皮を衣にして常に身につけ、念仏を唱えていました。

その後、京へ上り、賀茂の神木で千手観音像をつくり、お寺に祀りました。

行円は、皮を身につけていたため、皮聖(かわひじり)と呼ばれ、
革堂の名もこれに由来します。

寺は豊臣秀吉による都市計画のため、
1590年に寺町荒神口(京都御苑東側)に移転し、
1708年の大火の後、やや南に下がった現在地に移転しました。

革堂に伝わる、幽霊絵馬の伝説

江戸時代の末頃、行願寺の近くにあった質屋に奉公していたおふみという子守女は、

聞き慣れた御詠歌を子守歌がわりに口ずさみ、子守をしていた子どもまで御詠歌を覚えてしまいました。

熱心な法華信者であった質屋の主人はこれを見とがめ、おふみをなぐり、死なせてしまいます。


あわてた主人はおふみの遺体を土蔵に隠し、知らぬふりをしていました。

行方不明になったといわれた、おふみの父親は合点がいかず、革堂の観音様にすがると、おふみが現れ、殺されたと告げます。


そして、鏡とともに弔ってほしいと頼みます。
父親は、見たままの亡霊を絵馬に描かせ、鏡を添えて、革堂に奉納したといわれています。