毎年、観光キャンペーンとして実施されている、非公開文化財を特別に公開する「京の冬の旅」。
今年は、緊急事態宣言があり、一時休止され、期間が延長され、実施されました。
わたしが今回どうしても行きたかったのが、「東福寺龍吟庵(りょうぎんあん)」。

ここには、重森三玲作庭の3つの庭があること、そして、龍吟庵は国宝なので、重森三玲好きとしては一度見てみたかったのです。
ちなみに、重森三玲の本についてのコラムはこちらを。

3月末までの特別公開になんとか間に合い、行くことができました。
龍吟庵は、東福寺方丈(重森三玲の市松模様の庭があるところ)拝観受付の庫裏の建物の右の細い道を進み、裏手にいったところにあります。
その時渡るのが、東福寺にある3つの橋のうち、最も古く重要文化財の「偃月橋」。
この橋については、こちらのコラムで。

龍吟庵とは?
あまり知られていない龍吟庵。訪れる人もまばらで、とても静かです。
この龍吟庵は、東福寺三世住持・無関普門(南禅寺を開山)の住居跡で、国宝指定をうけているのは方丈です。
この方丈は、室町時代初期のもので、日本最古の方丈建築です。
ちょうど、寝殿造から書院造への移行期にあたり、
外は、御所にみられる半蔀(はじとみ)と呼ばれる、上半分を外側へつ り上げるようにあける戸になっており、貴族や公家の館のような優美な寝殿造です。
一方、内は、ふすまで部屋を仕切り、畳を敷く書院造。
両方が合わさった、なかなか見ることのない様式の建物です。
重森三玲作の3つの庭のはじまりは「無」
まず、最初が「無の庭」。

禅らしいシンプルな白砂だけの庭。
あえて、ここには石組をせず、手を入れずそのままにしたと、重森三玲庭園美術館でうかがいました。
ただ、それで終わらないのが三玲らしいところ。
上の写真の奥に見える生垣はアップにすると、

生垣は、斬新で、なにもない中で逆に印象的です。
これは次の庭への布石、稲妻を表しているそうです。
稲妻が光り、あらわれるのは「龍」
そして、次の庭が「龍の庭」。
龍吟庵の名前にちなみ、龍が海の中から昇天する姿を表現しています。
龍の庭を北側から撮影 龍の庭を南側から撮影
1枚の写真では入りきらず、北側からと南側から撮影した写真を並べてみました。
阿波(徳島)産の石で龍を表し、庭の中央にある3つのとがった石が顔と角があり、反時計回りに体があり、いちばん左(南)がしっぽだそうです。

白砂は海を、黒砂は黒雲を表し、その境にはモルタル(コンクリート)を使っています。
そして、白砂・黒砂とも砂紋(砂の模様)で動きを出しています。
モルタルは、輪郭となり白と黒がくっきりと分かれる効果があり、
実用的にも、砂紋を描く時、この上にのってかけるため、手入れしやすいというメリットもあるそうです。

そして、龍の庭の生垣は、雷を表しています。そして、今は、もみじの小さい花が咲いています。
さきほどの無の庭は稲妻の「光」、こちら龍の庭は雷の「音」で、対照的、
稲妻が光り、雷がなり、龍があらわれる場面を演出しているようです。
衝撃の赤砂の庭

最後が、「不離の庭」。
こちらは無関普門の幼少期の話が表現されています。
無関普門は、天然痘にかかり、当時は治らない病気ということで山に捨てられます。
山にはたくさんの狼がいて、襲ってきますが、二頭の犬が離れず、守り続けます。
3日後、山に見に行った親は、犬に守られ生きていたため、特別な力を持つと思い連れ帰り、看病し、病も治ったそうです。
山の中で、細長い石で表した無関普門を、その両側の丸みを帯びた白と黒の犬が守り、その両側に入るとがった3つずつの石の狼から守っている様子を表現しています。
そこで、「離れず=不離」の庭と名付けられています。
赤砂は、鞍馬の石を砕いたもので、現在ではもう取れないものだそうです。
今まで白砂の枯山水しか見たことがなかったので、赤砂は衝撃的でした。
セピアカラーにしたかったからとか、無関普門が生まれたところが赤石の山だったからだとか、いろいろ理由はありそうですが、
どこか挑戦的で、驚きがある三玲らしさを感じます。
これら3つの庭は、1964年、重森三玲69才の晩年の作品です。
ちなみに、東福寺本坊庭園(方丈)の有名な市松模様の庭は、デビュー作で44才の時のもの。
25年後に作庭したこの龍吟庵の庭は、さまざまな技術・表現方法を駆使して、成熟した表現力を感じます。
3つの庭がまったく印象が異なる中、ストーリーがあり、展開が変わっていく楽しさがあり、おもしろくて、何周もしました。
ずっと眺めていたくなるお庭です。
次回の公開は未定ですが、紅葉の時期に公開されることが多いようですので、ぜひ一度、訪れてみてください。
同じ重森三玲のお庭がある、東福寺光明院についてはこちらのコラムを。
光明院は通期で公開されています。
