新天皇が即位され、天皇・皇室ゆかりのお寺も注目されています。
青蓮院を案内することがあり、それに合わせて、青蓮院について詳しく調べていく中で、ちょっとだけ、ご紹介を。
青蓮院門跡とは
青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、皇室と関わり深い格式の高い門跡寺院です。
まず、三門跡とは、青蓮院・三千院・妙法院をいい、
これらの門主から、比叡山延暦寺の最高位の僧、すなわち天台宗のトップである天台座主が選ばれる、特に格式が高いお寺です。
門跡寺院とは、門主(住職)が皇室あるいは摂政、関白の貴族によって受け継がれてきたお寺のことをいいます。
もともと天皇には妃が多く、皇子皇女も多くなります。
しかし、天皇の位につけるのはただ一人の皇子に限られ、あとは極めて少ない官職しか残されていません。
そのため、天皇の皇子たちの就職口としては、門跡寺院を設けるしかありませんでした。
それも、一代限りで、僧籍に入ったものは独身でなければならなかったそうです。
こんな青蓮院の全盛期は、平安末期から鎌倉時代にかけて第三世門主を務めた慈円の時代です。
法然、親鸞を庇護した慈円
慈鎮和尚慈円は、歴史書『愚管抄』の著者としても有名です。

慈円は関白藤原忠通の7番目の子で、歌人としても知られ、天台宗のトップである天台座主を4度にわたって務めています。
この慈円は、時代の流れに理解のある方で、
当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖である法然上人や、浄土真宗の祖である親鸞聖人にも理解を示し、
延暦寺の抑圧から庇護しました。
法然は、慈円の兄が最も崇拝した僧で、比叡山を下りた後、青蓮院の管轄していた土地で暮らします。
慈円が法然に与えた院内一坊跡に、法然没後、門弟の源智により勢至堂が建立され、知恩院の起こりへとつながります。
また、親鸞は、9歳の時、慈円のもとで得度し、その時に剃った髪を祀ったお堂植髪堂が青蓮院内に今もあります。

法然が土佐に流され、親鸞も越後に流されましたが、
本来は死罪になるべきところを、慈円のとりなしによって一命をとりとめました。
なお、浄土真宗との関係が深く、明治期までは歴代の本願寺法主は青蓮院で得度したそうです。
慈円は、天台宗のトップでありながら、
新しく宗派をたてようとする、法然や親鸞に対しても理解を示し、庇護していたのは、
とても度量の大きい方だったんだと思います。
慈円の頃の寺は、現在の知恩院、将軍塚を含む、広大な敷地を持っていました。
しかし、徳川家は浄土宗だったので、徳川家康が法然上人を顕彰するために、知恩院を建設したり、
その南の土地も浄土真宗に渡すこととなり、今では創建時の寺地の10分の1以下になっています。
お寺の歴史やそこに生きた人たちを調べていくと、当時の思いや人の生き方、さまざまなつながりなど、いろんな側面がみえてきます。
お寺にただ行くだけではわからない、そこに秘められた思いや暮らした人たちの姿をお伝えできたらいいなと思っています。